中村吉明

(2002年1月15日) 我が国において最初に産業の空洞化問題が論じられたのは1980年代後半である。1985年のプラザ合意以降の急速な円高の進展等を背景に、我が国の製造業の生産拠点が急速に海外に移転した。このため、国内の雇用が減少し、技術水準が低下するのではないかといった恐れから、産業の空洞化問題が取り上げられた。その後、一時は沈静化したものの、1993年初頭以降の円高に伴い産業の空洞化の議論が再燃した。 さらに、ここへ来て中国経済の台頭や相次ぐ生産拠点の海外移転等を受け、3度目の産業の空洞化に関する議論が顕在化してきた。 産業の空洞化の処方箋を考える際の重要な視点は、どこまでをガバメント・リーチとするかという点にある。従来、この種の経済問題が発生した場合、できるできないにかかわらず、ある程度、政府が処方箋を考える傾向にあった。現在は、未成熟の経済体制の時代と違い、我が国は成熟した自由主義経済の中にある。加えて、以前は官民の間に情報の非対称性が存在したが、現在はそれもなくなり、官はイニシアチブを取って政策を遂行するほどの知見を持ち得なくなった。さらに、財政の限界も顕在化してきており、政府が実施できる政策の範囲も限られている。すなわち、政府の役割は時代とともに変化してきており、限定的なものになりつつある。以上を考慮に入れ、政府は分相応の処方箋を考えるべきである。その際、政府は企業に対し、その企業行動やグローバル化を阻害するような対応は厳に慎むべきである。 。。。 日本企業が海外で活躍していることを誇りに思うのはいけないことだろうか。産業の空洞化現象を我が国企業のグローバル化現象の一環として捉え、我が国企業が自己責任のもとで自由に経済活動を行うこと自体問題なのだろうか。 企業は時代の変遷とともにグローバル化しており、産業の空洞化の中で相変わらず、旧態依然とした対応をしているのは結局政府、議会、地方自治体なのではないのか。彼ら自身の海外移転は不可能なのだから。彼らこそ時代に応じて変わるべきである。彼らがすべきことは、企業が我が国に立地しやすくなるような魅力的な事業環境、投資環境の整備を行うことではないか。